google-maps-easy domain was triggered too early. This is usually an indicator for some code in the plugin or theme running too early. Translations should be loaded at the init action or later. Please see Debugging in WordPress for more information. (This message was added in version 6.7.0.) in /home/users/1/tokeigoya/web/1920041.com/soto/wp-includes/functions.php on line 6170twentytwentyone ドメインの翻訳の読み込みが早すぎました。これは通常、プラグインまたはテーマの一部のコードが早すぎるタイミングで実行されていることを示しています。翻訳は init アクション以降で読み込む必要があります。 詳しくは WordPress のデバッグをご覧ください。 (このメッセージはバージョン 6.7.0 で追加されました) in /home/users/1/tokeigoya/web/1920041.com/soto/wp-includes/functions.php on line 6170無地に見えれば見えるほど、高級とされる染めの技術。江戸小紋と呼ばれるその技術を120年以上に渡り継承している工房が、八王子の元横山町にありました。石塚染工があるのは、浅川にほど近い桑並木通り沿いです。神奈川県小田原で創業しましたが、染めに適した水を求めて創業から7年後の明治30年、八王子に移り住んできました。
無地のような柄を目指す 「江戸小紋」
江戸小紋は、型染めの一種。白生地の上に柄が彫られた型紙を置き、ヘラで糊をつけていきます。糊のついた生地を染めると糊がついている部分は染まらず、ついていないところだけが染まっていきます。江戸小紋は型染めの中でも、細かい柄を作るのが最大の特徴。柄の細かさから、遠くから見た時に無地のように見えるものが良しとされています。
「プリントをして無地に見せたい」
技術や装飾に対する当時の美学や追求心に頭が上がりません。

実際に見せて頂いたのは、糊付けの作業。柄と柄のつなぎ目にズレが起きないように型紙を置いて均等に糊をつける作業は、一生修行だと言われるほど上達に終わりがないのだそうです。

「細かな柄は誤魔化しがきかないから難しい」とおっしゃる石塚さん。型紙を作る技術も高度なものが求められ、現在は細かなドットや縞模様を綺麗に彫れる職人がいないそうです。石塚さんでは、昭和初期に作られた型紙を今でも大切に使用しています。

洗いに適した八王子の水
現在でも捺染工場や糸染め工場が残る八王子。八王子に染め工場が多い理由は、水にあります。全国的に見ても八王子はかなり軟水の地域。水の中にミネラルなどが含まれていない軟水の方が、染物に向いています。

石塚染工では、長らく地下から汲んだ水を使って反物を洗い糊を落としています。工房の外に長いコンクリートのプールが設置され、夏も冬もその中に入りバシャバシャと反物を洗うのだそうです。
一番重要な作業は、修正
「糊付けや色付けももちろん大事だけれど、染めた後の生地をきちんと検反し、修正をすることがもっと大事。ここで生地の出来が変わってくる」
そうおっしゃる石塚さんは、一反のうち多いもので全体の50%を修正することもあるそうです。
5代目の久美子さんは、糊つけよりもこの修正が難しいとおっしゃっていました。それほど、長年の経験に基づく工夫が必要なのだそうです。
石塚さんの元には、この修正技術の相談をしに他の工房から職人が訪れます。だからこそ、石塚染工には他では出来ない難しい発注が絶えずやってきます。

「そろそろゴルフしたいんだけど、娘が継ぐって言うから辞められないね(笑)」
着物を着る機会が減少している現在、染める職人だけではなく型紙を彫る人も減っています。あらゆる工程で担い手が減っている中でも、娘である石塚久美子さんが5代目として修行中です。
「そろそろ引退してゴルフをしたいんだけど、娘を育てないと行けないから困るよ」とおっしゃる表情には、笑顔も混じっていました。
数ある細かな柄の中でも一番難しいとされる縞模様。型紙を作ることも、線と線のつなぎ目がずれないように糊付けを施すのも最難関とされています。
「目が悪くなる前に、娘のために見本を作らなきゃ」と、次世代に良い作品を引き継いでいこうと言う石塚さんの思いが伝わってきました。
5代目が手がける、日本画と色彩の勉強を活かした現代の染め
取材の際、ちょうど反物を洗っていたのは5代目の久美子さん。
大学を出た後一度は就職したものの、やはり家の技術が途絶えることに危機感や勿体無さを感じ、染めの世界に入ったそうです。
久美子さんは大学で日本画を専攻し、色彩の勉強もしていたそう。
「型染めの製品は高級なものが多く、なかなか手を出しづらい。もっと若い人に型染めの製品を身につけてほしい」
そんな思いから、顔が明るく見える発色の着物やモダンな柄や色の半幅帯や衿などを手がけています。インスタグラムでは、久美子さんが手がける商品や染めの風景を見ることができます。
text:Rio Moriguchi
]]>薄暗い土間の空間でプツプツと発酵する藍の釜。釜の前にしゃがんで反物をゆっくりと染めていく職人の姿は、江戸時代からずっと変わらない染めの光景です。創業から約180年あまり、浴衣の型染めを続けている野口染物店。藍染と型染めの2つの伝統を受け継ぎながら、現在では藍染の良さを伝える取り組みにもチャレンジしています。
水を求め、京橋から八王子へ
江戸時代末期に京橋で開業し、八王子の中野上町へ拠点を移して90年以上になる野口染物店。
八王子の水は関東の中でも硬度が低く軟水です。カルシウムやマグネシウムがあまり入っていない軟水は、綺麗な色が出せるため染色に向いているのだそう。だからなのか、当時は野口さんのほかにも東京都心部や神奈川から八王子に染め場を移す工場が多かったと言います。

型染めと藍、二つの伝統を担う
創業以来、「長板中型(ながいたちゅうがた)」と呼ばれる浴衣の型染めを行なっている野口さん。
長板は字の通り、浴衣生地を長い板に貼って糊付けをすることから、「中型」は中くらいの大きさの柄(型)を染めることから、そう呼ばれているそうです。

板に貼った布に伊勢型紙を置き防染糊を刷毛で乗せ、その布を藍で染めていくのが野口さんの技術。
染まる部分は藍色、染まらない部分は白色。たった2色での表現を200年以上に渡り続けることを考えると、藍色がどれだけ日本人にとって普遍的で魅了する色なのかわかります。

数ある型紙の中から、目の錯覚をおこしそうな細かいドット柄が彫られた型を見つけました。一つ一つの小さな柄が綺麗に繋がるように一寸の狂いなく型紙を置く工程は、職人技が光ります。
糊は生もの、藍は生きもの
野口さんが使用している防染糊は、もち米と糠を混ぜたもの。創業から変わらない素材と調合です。色が褐色なのは、藍の色と見分けがつくように着色しているのだとか。

「糊が腐っちゃうから、小さい時は旅行もあまり行けなくてちょっと不満でしたよ笑」と話す7代目の和彦さん。使用している藍は、徳島県産の天然の藍。化学染料特有のにおいがせず、混じり気のない深い色を出すことができます。

化学染料や薬品を一切入れない釜の中では、お酒や醤油のように生き物が活発に発酵しています。気温や天気で状態が変わる藍に、日々意識を集中させて管理をするそう。職人は染めるだけではなく、道具のメンテナンスや藍、糊のお世話まで幅広い知識や技術、心配りが必要なのです。
表も裏も防染する、一手間かけた染め
野口さんが染める浴衣の中に、一際色のコントラストに目がとまる生地がありました。これは、野口染物店の代名詞といえる表裏に防染糊を施した藍染め生地。型紙を表裏ぴったりと重ねて糊をつけて染めることで、裏に藍の色がつかず、模様部分がくっきりと白のまま残ります。
白がより真っ白に映ることで藍との色差が強調され、より鮮やかになる浴衣は、とても色気があります。
「型染めじゃないと、野口染物店じゃない」
和装需要の低下もあり、生産量は昔より減少している現在。同業者も型紙を作る職人も、次第にいなくなってきています。
7代目はそんな状況でも、「表裏に糊をつける型染めの技法があってこその野口染物店。そこはブレずに続けていきたい」とおっしゃっていました。
伝統を守りながらも、藍を活用して製品や革物への染めにも挑戦していき、藍染の良さを広く伝えていきたいそうです。最近ではインスタグラムも始め、様々なアイテムを藍に染めている風景を見ることができます。

手作りの良さを知ってほしい
着物や浴衣を日常的に着る人が減っている今、型染めや藍染めに馴染みがない人が増えています。野口さんは、手作りによる色や柄の不均一さに対し、昔より理解が薄くなっていると感じているそうです。だからこそ、藍染めや型染めの特性を知ってもらうために藍染体験を始めました。
体験では、普段野口さんが使っている本藍の釜に直接手を入れてTシャツなどを染めることができます。手入れや管理が大変な本藍にドボンと手を入れられる、とても贅沢な時間。ぜひご予約の上、藍染めをお楽しみください。

text:Rio Moriguchi
]]>作ることを極めた職人も、現代では自分から発信をする時代です。しかし、SNSが登場する遥か昔から、40年以上自分で販売・発信することを当たり前のように行なっている職人さんが八王子にいました。
独特な色の重なりが美しい「手差し型染め」
藤本義和さんが昭和36年に始めた工房、藤本染工芸。全国でも珍しい、手差し型染めという技法で浴衣や着物に染めを施します。数ある型染め技法の中でも藤本さんが手がける手差し型染めは、糊がついた生地に小さな刷毛で絵付けをするもの。色の置き方を自由自在に変えることができます。


特に藤本さんが得意とする、刷毛を置く位置をずらしながら色を繋げるグラデーション表現は、色の移ろいや絶妙な重なりがとても美しい作品です。

同じ型を用いても、使う色の数や位置により全く異なる印象の生地が出来上がるので、全て一点物になります。

燃え尽き期間と独立への思い
藤本さんは織物や染色を学ぶ学校を卒業した後、新宿の中井にあった型染め工場で6年間修行し、その後八王子に帰って独立をします。
しかし八王子に帰ってきてすぐに起業したわけではありません。長い修行期間が終わり燃えつきてしまったという藤本さんは、毎日浅川の河川敷でお弁当を食べながらぼんやりと過ごしていたそうです。そんな時出会ったのが、中野上町にある奥田染工場。2代目から誘われ数ヶ月間工場で働きながら、次第に独立に向けた思いが再燃していったそう。
繊維の街らしい人との出会いが、藤本さんの背中を押しました。
「自分で作る力さえ持てば、自分で売ることができる」
藤本さんのモットーは、「自分で作り自分で売る」。
藤本さんは創業から3年ほどでほとんどの問屋さんと仕事をするのを辞め、自ら百貨店で催事を開き個人のお客様との繋がりを強めていったそうです。
「自分で作る力さえ持っていれば、目先の売り先にとらわれずにお客様へ直接、地道に提案することができる。一つのものをじっくり作り上げることが、自分のような作家の生きる道」
現在は自分で情報発信が気軽にできる時代ですが、当時はまだ問屋さんの力が強く発信ツールがなかった時代。すでに自分で伝えることの大切さに気づき40年以上続けている姿や先見の明に感銘を受けました。
常にお客様を見る、妥協しない染め
藤本さんが染めをしていて、特に心に残っているエピソードがあるそうです。
それは、顧客様の娘さんが百貨店で藤本さんの作品を見た時のこと。藤本さんの作品に惚れ、成人式用の着物を藤本さんの型染めに決めたそう。藤本さんが作った作品が大変気に入り、藤本さんは手紙をもらったのがとても嬉しかったと言います。それから母娘で長く藤本さんの生地を注文しているのだとか。
直接お客様の声を聞いて染めをする藤本さんは、常にお客様の反応を敏感に感じ取り、納得いくまで作品を作ります。多い時では、1つの商品を3回も染め直したことがあるそうです。
「正解がないからこそ、お客様の反応が喜びに変わるまで考え抜いて妥協しない」と言います。そんな藤本さんの元には、今でも絶えず全国の百貨店から催事の依頼が来ているそうです。

型染めを気軽に始めて欲しい
「型染めそのものが残って欲しい」「ここで修行して独立し、活躍してくれたら嬉しい」
そんな思いから、藤本さんは技術伝承のために弟子を入れたり、気軽に型染めに触れてもらうための教室も開いています。

「着物を染めなくても小さなハンカチや小物などから始めてもらい、興味を持ってもらいたい。その中から数人でも型染めを続けてくれれば、産業が残る可能性がある」と、技術継承の未来を描いています。
藤本さんの教室は、材料費込みで3回1万円。正直安すぎるのでは?と思う値段で染めの体験ができますが、気軽に染めを始めて欲しいという、藤本さんの優しい思いが込められているのだと思います。
染め工房では、手差し型染めを施した布小物や木の小物も販売しています。ぜひ一度訪問し、色とりどりの小物を見てみてください。
text:Rio Moriguchi
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神奈川県愛甲郡愛川町半原にある、愛川繊維会館 を訪れました。撚糸の産地として栄えた街の資料が展示されているこの施設では、手織り体験をはじめ、藍染、紙漉き、組紐などの制作体験もできるのだとか。2 階には、当時実際に使用されていた貴重な機械を見ることができます。
始まりは養蚕
ここは、かつて養蚕が盛んに行われていた地域。そして、日本屈指の撚糸業地として有名であった場所です。周囲は山に囲まれていて、取材に伺った日は山が芽吹き、鶯の鳴き声が聞こえてきました。この自然に囲まれた一帯は平地が少なく、水田にも畑地にも恵まれなかったといいます。農業だけでは生活が立ち行かず、副業の一つとして養蚕が選ばれたのです。取れた繭から布を織って、暮らしの足しにしていました。当時はこの織物を「半原絹」と呼び、上等品として扱われていたのだそう。
半原は、江戸や甲州、八王子などの産地に近かったこともあり、撚糸の受注が容易な土地でした。各産地の組紐の糸や織物用の糸を生産する仕事が次第に始まります。絹の撚糸は値段も高く他の副業よりも収入が良いという利点も、養蚕地でありながら撚糸の産地として発展していった理由の一つでした。
八丁式撚糸機
撚糸は昔から「紡車」(つむぎぐるま)という機械で撚っていました。それは輪にかけた紐の動きで一本のおもりを回して撚るという原始的な方法です。それを見た桐生の大工、岩瀬吉兵衛が考案したのがこの「八丁式撚糸機」の元になる機械でした。木製の「八丁式撚糸機」では、台の上に20 本ほどのおもりを横並びに取り付け、それぞれに掛けた紐を大きな輪で一斉に回転させる動きで糸を撚ります。それは「紡車」に比べて何十倍も効率が上がり、桐生では織物業も大きく発展しました。半原にこの八丁式撚糸機が導入されたのは19 世紀初め、1807 年のこと。半原の商人であった小島紋右衛門が仕事で桐生を訪れた際に出会います。その素晴らしい機械の働きを見て、すぐに桐生から取り寄せて撚糸職人も招き撚糸業を始めたそうです。
発展した理由
半原はなぜ日本屈指の撚糸産地になるほど発展したのでしょうか。そこには地理的な理由と、宮大工の存在が大きく影響しています。平地が少ない反面、川や沢が多く撚糸機を動かす水力が多いこと。撚糸製造に不可欠な一定の湿度が地形上保たれていたことなども理由の一つです。そして、以前から半原に根付いていた優れた技術を持つ宮大工が、工夫して機械を作ります。のちには撚糸を専門とする大工も現れるほど、他にはない撚糸機の発展に貢献しました。このように、半原は撚糸業に適した条件の揃った場所と、技術向上に熱心だった宮大工のおかげで一大産地として栄えていったのです。それほど栄えていた半原の撚糸産業も、現在ではその工場のほとんが無くなっています。会館には、今は使われなくなった様々な機械が大切に保存されていました。それぞれの機械に細かい説明が付いていて、初心者でもよく理解することができます。撚糸会館は、貴重な産業の資料とともに半原の撚糸産業の軌跡が残されている場所でした。自然と撚糸産業が強く結びついていた愛川町。その自然を感じに、ぜひ会館を訪れてみてください。
text:Hirono Aoki
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神奈川レースは第二次世界大戦後、昭和24 年にスタートした会社。現在は有名ブランドの刺繍布を扱っています。当初は肌着の肩紐をつくる細巾織物を生産していました。アメリカ映画で刺繍の入ったブラジャーを目にし、製品に付加価値をつけたいという想いから、昭和35 年にレースを始めたのだそう。インナーから始まり、衣服の刺繍、国内生産の高級下着の刺繍を行っていましたが、国内メーカーの生産は多くが中国へと移ってしまいます。日本で生産が盛んだった時代にはレースの機械を何十台持っているような工場もありましたが、今では数台の小さな工場がほとんど。現在も続けられている工場は日本全国を見ても本当に数少ないようです。
人の手をたどるレース機
レース機は、手刺繍と同じように生地に枠が張られていました。のぞいてみると、針は上下するだけで、枠が左右に動いて形ができていく様子が見えます。レース機の長さは1 台なんと14m!ちょうど1反を同時に刺繍できるようになっているのだそう。このようなレース機を扱う工場は少ないため、国内にレース機を扱える技術者はもういません。不具合が起きた際は、海外の技術者に連絡するため、すぐに改善できず、やり取りが難しくなっているそうです。レースの図案は、元絵の6 倍に印刷され、1針1針ペンでデータを打ち込んでいきます。糸の始まりと終わりを点で打ち込み、レース機は点の位置を記録して布に針を打ち込むのです。打ち込まれたデータは、打ち込んだ順番にならって刺繍されます。図案が刺繍になる際、もう少しここはふくよかにしたい、スリムにしたいといったようにイメージを膨らませて修正を重ね、データ化するのだそう。この図案製作に、それぞれの工場の特徴が出ると言います。デザイナーのアイデアだけではなく、技術者のセンスによって出来上がりは大きく変わっていくため、デザイナーが望んでいる結果を汲み取り、期待以上の図案を仕上げる。人気の刺繍布は、このような技術者による繊細な作業から生まれていきました。
機械のミスを手直しする
取材に訪れた際に目に留まったのは、ミシンや机に向かって黙々と手仕事をする方々。機械のミスを手直しするという細かな作業をされていました。一見工場らしく思いますが、今まで訪れた繊維工場では目にしなかった光景です。他の工場では、ミスは使われない部分として避けるという印象がありました。しかしここでは、それを人の手でコツコツと直している。神奈川レースさんの繊細なものづくり精神が感じられました。
パワフルな佐藤さん
工場の案内をしていただいた佐藤さん。その中で、たくさんのお話を聞かせていただきました。佐藤さんは、近くにレース工場ができたことをきっかけに興味を持ち、この職業を選ばれたのだそう。大学三年生の私たちを「自分の子だったら…」と親のような気持ちで将来を心配してくださったり、免疫を高めるために健康の秘訣を教えてくださったり、スマートフォンを取り出して、インスタグラムに載っているご自身の仕事を紹介してくださったり、、と、そんな気さくでパワフルな姿に驚かされました。佐藤さんの、自分たちが良いものづくりをしているという自信と、親身になって話を聞いてくださる姿勢が、お取引先との信頼関係を築いているのでしょう。これが、神奈川レースさんにしかできないお仕事に繋がっているのだと感じました。
text:Sena Nakano
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神奈川県相模原市の西側、山奥の湖の近くに工場を構えるイノウエ。1928 年に、組紐の製造から始まりました。その後二代目社長が組紐の技術を活かしたヘアゴムの開発に取り組み、現在ではオリジナル商品の開発や、日本国内に留まらない海外に向けたPR 活動もされています。元々この半原・津久井地域は日本有数の組紐産地で、創業当時は数十件の家内工業がにぎわいを見せていたそうです。
くるくる回る機械
工場内ではたくさんの製紐機(せいちゅうき)が稼働し、ものすごい迫力に圧倒されます。その数なんと約400 台!製紐機は特殊な見た目をしています。引っ張られた状態の一本のゴムの周りを、糸が巻き付けられたボビンがいくつもくるくると回り、ゴムの表面を包んでいきます。この糸の色数を増やしたり変えたりすることで、色柄のバリエーションのあるゴム紐が生まれます。ゴムが太いものだと、必要なボビンの量も増え、大きな製紐機で作られることになります。テンションをかけたままのゴムに糸を巻きつけることで、伸縮性のある紐になるそうです。工場に伺ったのは3月の終わり頃。ですが、もう次の冬に向けての商品を製造していました。乾燥する冬がシーズンである商品、静電気軽減リングに使われる紐には、静電気を軽減する特殊な糸が組み合わされています。春のうちに作り始めて、夏には出荷、そして次の冬になると私たちの元へとやってくるのです。
ヘアゴムの生みの親!
看板商品であるヘアゴムは、ファッションブームが到来してすぐの1960~70 年代頃に「日本女性の美しい黒髪に似合うカラフルな紐を!」と、まだ自由なファッションが考えられなかった時代に開発されました。世の中にカラーゴムの存在が知られるようになるとともに、製造が間に合わなくなるほど売れるようになっていきます。その後、髪を「結ぶ」という行為が生活から薄れつつあった時代に女の子が自分一人で髪を結くことができるようにとリング状のヘアゴムを開発。つなぎ目がわからなくゴムを接着する技術は特許を取得しており、今では女性の必需品となるほどの大ヒットに繋がりました。
普段あたり前のように使っているゴム紐の生まれる現場を間近に見ることができ、日常にはものづくりが溢れていることに気づきました。何もないところから当たり前をつくるというのは、本当にすごいことだと思います。一つ一つに技術や工夫、情熱が詰まっています。ものづくりの現場やエピソードを知ることは、ものに対する私たちの価値観を変えていくことにつながるはずだと感じることができました。
工夫が溢れた工場
工場の壁一面は60 色もある紐の在庫で埋め尽くされており、印のついた半透明の箱に入れられています。箱の印は、紐の減りによって残りのメートル数がわかるメモリになっており、取り出さずとも一目で在庫量の確認ができる工夫がされていました。また、工場内は温度が一定に保たれています。温度が低すぎたり、乾燥しすぎたりすると、紐が切れやすくなってしまうそう。そのため従業員の方々は、一年中イノウエのユニフォームであるブルーのT シャツ姿でお仕事をされており「工場内では季節感がない」と笑いながらおっしゃっていました。
text:Ami Tanaka
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八王子を離れ、福生市のさらに北にある西多摩郡瑞穂町へ。訪れたのは、大正12 年創業の「板締め」を行う小山織物です。染色の伝統技法である「板締め」を応用し、服地に施している小山さん。80 年代のファッションブームによる伝統技法の新たなチャレンジは、どのように生まれたのでしょうか。
小山さんの話
出迎えて下さったスーツ姿の小山さんを見て、想像していた職人像とは違った姿に驚きました。小山さんはとても几帳面な方で、昭和58 年からの発注依頼書が大切にファイルに納められています。しかし意外にも、学生時代の小山さんは八王子工業高校の応援団に所属する「蛮カラ」だったそう。その頃、当時大学生だったみやしん株式会社(現・文化ファッションテキスタイル研究所)の宮本さんと出会い、喫茶店で意気投合したのだとおっしゃっていました。高校を卒業した後の昭和40 年代、洋服マーチャンダイザーとして2 年間、八王子のたつみやで働いていました。45000 円ほどの給料のうち、30000 円がガソリン代としてなくなってしまうことも。ライセンスをとるほどの車好きで給料全部を車に投資していたり、お話から小山さんの生きてきた時代を感じました。小山織物では、みやしんの宮本さんから「まだ機屋やってるか?」と電話がかかってきたことをきっかけに、新しい仕事が始まりました。それまでは和服の糸の板締めをしていましたが、依頼は洋服生地に板締め染めをすること。布幅が板締めの型より大きいため綺麗に防染することが難しく、また、同じモノの再現や、パターン化が不可能です。しかしその分、これまでの板締めの概念を覆す新たな技術やバリエーションが生まれていきました。これが魅力となり、服の生地をつくるお仕事が始まったのです。
村山大島紬と「板締め」
この地域では古くから村山大島紬の生産を行ってます。小山さんはその中でも糸染めの工程を担っており、糸を染める部分・染めない部分に分けて模様を出す絣染めの技術、「板締め」を行なっていました。昭和50 年頃、村山大島紬は通産大臣指定伝統的工芸品に選出したことで脚光を浴びます。全国に小山織物の商品がまわり、売上は50 億円になったこともあったそう。しかし現在では、大島紬を作る工場は2 社しか残っていません。
絣生地を大量生産するための板締め技法は、板が1 反(13m) に100 枚も必要になります。手作業で作られる板締めの板。絵の図案を板図案に変え、板に図案を彫り出してからやっと染色の工程に入ります。手仕事の工程が多く、それぞれの仕事があってこそ成り立つ板締め。1 つ工場が無くなれば、生産が難しくなります。最盛期には図案屋さんや板を彫る技術者もいましたが、すでに失われてしまいました。現在小山織物さんでは、過去の板を使用した板締めを行なっています。
変化する伝統技法
80 年代は、ファッションデザイナーがこぞってオリジナル性の高い生地を開発していた時代。伝統技法を活用するアイデアや需要がいくつもあったのだと思います。小山さんのように柔軟な方に、日本のアパレルは救われていたのだと感じました。しかし、技術者の担い手が育たないのも現状。一時的に技術を利用するだけではなく、継承を一緒に考えていけるものづくりをしなければならないと強く感じました。
text:Sena Nakano
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]]>糊付け屋さんを営む、笑顔が可愛らしい森川さん。市街地の住宅街にある森川さんのご自宅前で車を降り、これから別の場所にある工場へ案内してもらうのかと思っていたら、森川さんは家の庭先にあるガレージの中へ。続いて中に入ると、見たことのない古道具が並んでいます。ここが作業場なんだ!と、外からは想像できない異空間に驚きました。
「糊つけ」?
「糊つけ」とはどんな工程なのか?大学でテキスタイルを学んでいる私もイメージがわかないので、知っている人はほとんどいないように思います。織物は、機械にピンと張られた経糸(たていと)が上下に動いて織られていくもの。織り上がるまでの過程で糸にはたくさんの力がかかり、そのままの糸を機械にかけると摩擦で糸が切れたり毛玉ができたり、いい織物ができません。そのため、糸にあらかじめ糊をつけて強度を補ったり滑りを良くしたりします。これが「糊つけ」という工程です。森川さんはこの糊つけの仕事を、家業としてお父さんから受け継いだそうです。
絹で磨かれた木
森川さんの作業場で特に目を惹かれたのは、各所に置かれた木の道具でした。その全てがツルツルさらさら、ずっと触っていたくなるような触り心地。実際に糊つけの作業を再現していただくと、その理由がわかりました。枷(かせ)を大きい丸太に通し、強い力でピンと張って糸の絡みをほぐしたあと、木の棒を使って糊がついた枷をねじって水気を絞ります。脱水機がなかった時代から、今でもこの方法で行なっているそう。これらの作業で絹糸と木が擦れて磨かれ、撫でられたお地蔵さんのようにツルツルになっていったようです。更に、糸がよく当たる場所は木が摩擦で凹んでいました。糊つけがそれほど長い年月をかけて織物という産業を支えてきたことが感じ取れます。

糊つけの今
森川さんはお父さんから家業を引き継いだ後、ずっと一人でこの仕事を続けられてきたそうです。現在は、全国的に見ても手作業で糊つけを行なっている工場はほとんど残っていません。「今は機械の発達で糊がついていなくても織れるものが増えてきたけど、糊がついているものはシャキっとしていて手触りが違う」と教えていただき、産業の現状を受け入れながらも、糊つけという家業を大切に思っているように感じられました。私たちが知らない間に、全国各地で今もひっそりと失われている技術がきっとあることや、大切な技術を守っていきましょう、と無責任には言えないことなど、色々なことが頭を巡りました。私たちにできることは、何かあるでしょうか。八王子という街には、街の産業を支えていた職人さんがきっとたくさんいたこと。今日森川さんとお会いしてお仕事を拝見させて頂き、機織りの背景には、私の想像以上にたくさんの人の技術が関わってきたのだということを知ることが出来ました。
text:Hinako Suga
]]>多くの有名デザイナーの依頼を受けてきた大原織物。大原さんに布を作って欲しくて、何十年と通うデザイナー達がいます。他の織物工場ではなく、なぜ大原さんに頼むのか。取材を通して、それが少しだけわかったような気がしました。
大原さんの観察眼
大原さんが奥からたくさんの布サンプルの山を運んできてくださいました。
驚いてしまうような布が多く、大原さんはこちらの反応を楽しみながら笑みを浮
かべて教えてくださいました。
現在の大原織物さんの原点は、たくさんの工場が集まるファッション協議会にあ
り、そこで色々な素材を知って、たくさんの素材や技法を組み合わせて製品をつ
くるようになりました。当時、ネクタイの多くがシルク素材でしたが、大原さん
は綿やウール、麻のネクタイを作り、これは面白いと思ったのだそうです。お話
を聞くと、素材選びにこだわりがあることがわかります。それぞれの素材の組み
合わせが適切で、妥協がありません。新しいことに対しても抵抗がなく、工場で
の経験に限らず思案できるということや、完成した布への自信や愛着も、お話か
ら感じられました。
大原さんはデザイナーさんにデザイン案を渡されると、すぐにデザインに合った
サンプルをつくる事が出来るといいます。また、デザインを見て、それはつくっ
たことがあよ、こうした方が面白いよ、というような提案をされることも。実際
に仕事について話している様子をみても、提案に対して「今すぐサンプルつくれ
るよ」といったスマートな対応をされていて、私の目にはそんな大原さんがかっ
こよく映りました。
東京の暮らしに共存する工場
住宅街の中にある大原さんの工場は、東京の暮らしとともにありました。工場に入ると、機械が密集して並び、機械の前に立つとそのすぐ後ろにも機械が。全ての道具や機械にスッと手が伸びるように計算された空間づくりに驚きました。こうした細部に宿る工夫やアイデアが、大原さんの産み出す布にも込められているように思いました。

10 年以上の付き合い
大原さんはお取引先とのお仕事を1 度始めると、10 年以上の付き合いになるそう。価格では勝負しないという大原さん。それでも取引先との長いお付き合いがあるということは、依頼する側の作りたいもの、それ以上のものを大原さんが実現できるからなのではないでしょうか。デザイナーさんと同じような気持ちで仕事に取り組まれていて、デザインに対して他人事ではなく、一緒にものを考えてつくること。依頼を再現するだけでなく、より良いものを作りたいという気持ちを自然と持っている方で、それが大原さんの魅力なのだと感じました。
text:Sena Nakano
]]>八王子駅から西へ少し進んだ場所にある田口織物。創業当初は緑の溢れる田舎町だったそうですが、最近は周りに家も増え住宅街となりました。そのため、織り機を動かすときに出る大きな音で苦情がきてしまうこともあったとか。工場へ入ると事務所があり、そこには今までのお仕事でつくられた数え切れないほどの生地サンプルがずらりと並べられています。
田口織物の特長
工場には、機械式の織機、手織りの織機、糸巻き機、組紐機など、様々な機械が並べられています。その空間はまるでアートギャラリーのよう。八王子は他の産地と比べて土地の所有面積が少ないためか、天井の空間を生かした整理整頓の仕方が印象的でした。
田口さんでつくられる織物は、ウールなどの太い糸の使用と装飾的な表現が特長。織物といえば、フラットな経糸と緯糸で織られたシンプルなものを想像します
が、田口さんに見せていただいたものはどれも立体的で、思わず触りたくなるモフモフが散りばめられていたり、織り方を工夫したとてもかわいらしい織物がたくさんありました。/p>
時代で変化するものたち
ファッションを中心とする生地を織ってきた田口織物さん。1960 年の創業から現在に至るまで、様々な変化があったと言います。近年のファッション業界の厳しさから、インテリア製品の生地も織るようになったこと。インターネットの普及で、実物よりも写真の良さが優先されるようになってきたこと。そのため、良いものをつくっても見つけてもらうことが大変になってしまったこと。ファッションの流行を促すような生地を頻繁に生み出さなければならない忙しい時代が終わり、流行に左右されない生地をつくる時代へと変化していきました。
職人さん本人の意図とは関係なく、時代の変化に合わせて自分たちが変わらなければならない現実があることを知りました。

織物産業のこれから
生地の展示会に参加する際、繊維産業の今後について他のメーカーと話すことがあるという田口さん。その度に繊維産業の苦しさを他のメーカーと共有し、打開策を日々考えているそう。
有名なブランドやデザイナーさんの生地を扱っているという話を聞き、大学で染織を学ぶ私たちが想像していたのは、八王子の織物産業の盛んな生産の様子。しかし田口さんは、織物の魅力を話す楽しそう
な表情とは一転、時代による産業の変化をお話をされている時は、とても苦い顔をされていました。田口織物さんを訪れて、八王子織物は他の産地と比べ、少ない面積を活かした自由な表現ができるという魅力があることを知りました。大学で染織やデザインを学ぶ私たちがもっと産地や工場のことを知り、発信・連携をしていくことが、産地の継続につながるのではないかと感じました。
text:Yuko Miyachi
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