小山織物工場

八王子を離れ、福生市のさらに北にある西多摩郡瑞穂町へ。訪れたのは、大正12 年創業の「板締め」を行う小山織物です。染色の伝統技法である「板締め」を応用し、服地に施している小山さん。80 年代のファッションブームによる伝統技法の新たなチャレンジは、どのように生まれたのでしょうか。

小山さんの話

出迎えて下さったスーツ姿の小山さんを見て、想像していた職人像とは違った姿に驚きました。小山さんはとても几帳面な方で、昭和58 年からの発注依頼書が大切にファイルに納められています。しかし意外にも、学生時代の小山さんは八王子工業高校の応援団に所属する「蛮カラ」だったそう。その頃、当時大学生だったみやしん株式会社(現・文化ファッションテキスタイル研究所)の宮本さんと出会い、喫茶店で意気投合したのだとおっしゃっていました。高校を卒業した後の昭和40 年代、洋服マーチャンダイザーとして2 年間、八王子のたつみやで働いていました。45000 円ほどの給料のうち、30000 円がガソリン代としてなくなってしまうことも。ライセンスをとるほどの車好きで給料全部を車に投資していたり、お話から小山さんの生きてきた時代を感じました。小山織物では、みやしんの宮本さんから「まだ機屋やってるか?」と電話がかかってきたことをきっかけに、新しい仕事が始まりました。それまでは和服の糸の板締めをしていましたが、依頼は洋服生地に板締め染めをすること。布幅が板締めの型より大きいため綺麗に防染することが難しく、また、同じモノの再現や、パターン化が不可能です。しかしその分、これまでの板締めの概念を覆す新たな技術やバリエーションが生まれていきました。これが魅力となり、服の生地をつくるお仕事が始まったのです。

村山大島紬と「板締め」

この地域では古くから村山大島紬の生産を行ってます。小山さんはその中でも糸染めの工程を担っており、糸を染める部分・染めない部分に分けて模様を出す絣染めの技術、「板締め」を行なっていました。昭和50 年頃、村山大島紬は通産大臣指定伝統的工芸品に選出したことで脚光を浴びます。全国に小山織物の商品がまわり、売上は50 億円になったこともあったそう。しかし現在では、大島紬を作る工場は2 社しか残っていません。

絣生地を大量生産するための板締め技法は、板が1 反(13m) に100 枚も必要になります。手作業で作られる板締めの板。絵の図案を板図案に変え、板に図案を彫り出してからやっと染色の工程に入ります。手仕事の工程が多く、それぞれの仕事があってこそ成り立つ板締め。1 つ工場が無くなれば、生産が難しくなります。最盛期には図案屋さんや板を彫る技術者もいましたが、すでに失われてしまいました。現在小山織物さんでは、過去の板を使用した板締めを行なっています。

変化する伝統技法

80 年代は、ファッションデザイナーがこぞってオリジナル性の高い生地を開発していた時代。伝統技法を活用するアイデアや需要がいくつもあったのだと思います。小山さんのように柔軟な方に、日本のアパレルは救われていたのだと感じました。しかし、技術者の担い手が育たないのも現状。一時的に技術を利用するだけではなく、継承を一緒に考えていけるものづくりをしなければならないと強く感じました。

text:Sena Nakano

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