私たちは八王子に住み、東京造形大学、武蔵野美術大学、多摩美術大学でそれぞれテキスタイルデザインを学ぶ大学生です。どうやら八王子は、古くから「桑都」と呼ばれていたらしい。私たちは布のことを学びながら、八王子が繊維の街であったことをあまりよく知りませんでした。私たちが住む八王子って、本当はどんな場所なんだろう。プロジェクトを通して、八王子を歩き、学び、体験しながら、知らなかったたくさんの風景に出会いました。「八王子ってなんだ?」を考えながら、私たちの目に映った桑都物語をここに記します。

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工場めぐりマップ
八王子と周辺地域にある工場を探して取材に行ってきました!

    • 桑都ってなに
    「桑都」の由来は、西行が詠んだと伝えられる「浅川を 渡れば 富士の雪白く桑の都に青嵐吹く」という歌にちなんでいます。八王子は古くから生糸や絹織物の生産が盛んだったため、蚕が食べるための桑も多く植えられていました。甲州街道の宿場町であった八王子宿の北西側には織物生産地帯が、南側には生糸生産地帯があり、当時から既に区域によって糸と織物の生産地域が分かれていました。
    • なぜ絹の道と
      呼ばれているの
    1859年(安政6年)の横浜港開港をきっかけに、絹糸が海外への主要な輸出品として本格的取引が始まります。八王子は養蚕地帯の中でも横浜や江戸に近いという地理的条件から、横浜に絹糸を運ぶ中間地点となり、八王子は絹糸の一大集積地となりました。絹の主な生産地である上州(群馬県)、信州(長野県)、甲州(山梨県)などから八王子を仲介し、横浜へと続く道は後に「絹の道」と呼ばれるようになりました。
    • なぜ八王子は
      織物の街なの
    1914年(大正3年)に変電所が完成し市街地に電気が通るようになり、動力を必要とする力織機の導入が始まりました。1914年(大正3年)の織機は手織機4493台、力織機291台だったのに対し、1920 年(大正9年)には手織機1593台、力織機が4681台にも倍増しました。八王子市が市制を開始したのは1917年(大正6年)。電力が通り、繊維産業が盛り上がり出してから、たった4 年後のことです。市制の始まりには「繊維産業」との密接な繋がりがありました。1935年(昭和10年)、八王子の産業において織物業が占める比率は圧倒的で、工場数は八王子全体の97%(1372工場)、従業員及び生産額は全体の95%を占めていました。


  • イベント特設Webサイト
  • 人が交差し、街が生まれる。
    「織物のまち」に残された、
    「街と織物」の原風景。
    街の記憶を残す織物工場を巡る
    100年の物語。