かつて八王子には、市街地の100%近くが織物工場だった時代があったそうです。いったいその時代の街は、どんな景色だったのだろう。今の八王子からは、どうしても想像がつきません。繊維産業の熱気の中を行き交う人たちは、どんな日常を過ごしていたのか。これから私たちが作っていく布の未来は、どうなっていくのか。街に残る資料を集め、八王子の歴史を学びます。
港への通り道
八王子の繊維産業が栄えるきっかけとなったのは、1859 年(安政6 年)の横浜港開港。米修好通商条約以前の密貿易を経て、開港と共に絹糸は海外への主要な輸出品として本格的な取引が始まりました。八王子は養蚕地帯の中でも横浜や江戸にも近いという地理的条件から、横浜に絹糸を運ぶための集積地となります。上州、信州、甲州などから横浜へと続く道は「絹の道」と呼ばれ、その中間地点である八王子には大量の絹糸が集まりました。1889 年(明治22 年)に新宿~八王子を結ぶ甲武鉄道、1908 年(明治41 年)に東神奈川~八王子を結ぶ横浜鉄道が開通したことで生糸の運搬は鉄道が行うようになり、絹の道はその役割を終えました。1890 年代後半(明治30 年代)政府統計の全国織物産地売上高においても、京都西陣、桐生の日本二大産地に次いで、八王子が第3 位だったと記録されています。
手織りから機械化へ
その頃イギリスでは、紡績機の機械化による綿糸の生産効率化が進んでいました。1785 年(天明5年)織機の動力化として、E・カートライトがパワー・ルーム(力織機)を開発します。八王子においては、1914 年(大正3 年)以降の市街地への電力供給や第一次大戦による好景気により、力織機の導入が進みました。中でも、八王子市寺町の市川正作が製作する「市川式力織機」が高いシェアを得ます。1914 年の八王子(大正3 年)では手織機が4493 台、力織機が291 台稼働していたのに対し、1920 年(大正9 年)には手機機が1593 台、力織機は4681 台にまで増え、約6300
台もの織機が八王子織物の生産を支えていました。それまでは家内工業的な生産が主流で、農業の副業的側面が強かった織物生産。しかし力織機の普及により、山沿いの村での生産から、市街地での電力を使用する生産へと移り変わっていくのです。
八王子で使用されている織機の式別台数 | |
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名称 | 台数 |
市川式 | 1741 |
八千代式 | 648 |
牧島式 | 636 |
高柳式 | 459 |
初ヶ谷式 | 213 |
星野式 | 247 |
天野式 | 223 |
合計 | 4167 |
資料:八王子織物工業組合百年史 174 頁
『組合報』第31 号 大正8 年4 月より
戦争の影響
時は1935 年(昭和10 年)、八王子の産業において織物業が占める比率は圧倒的で、工場数
は八王子全体の97%(1372 工場)、従業員及び生産額は95%を占めていました。しかし1941 年(昭和16 年)、日本は太平洋戦争へと突入します。1943 年(昭和18 年)には繊維工業の軍需産業への転換が求められると共に、設備の屑化供出が行われました。微弱な業者を極力操業させ、戦力増強に寄与できる力のある工場が織機を廃し軍需工場等へと転向します。1945 年(昭和20 年)8 月2 日の八王子空襲により、市街地の90%が焦土となり、終戦時には、工場数は以前の約21%、織機台数は約16%まで減少したと記録されています。
残存 | |||
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支部別 | 工場数 | 絹人絹 (織機数) |
綿スフ (織機数) |
八王子 | 520 | 6778 | — |
青梅 | 97 | 2005 | 1123 |
東京 | 25 | 222 | 273 |
村山 | — | — | — |
合計 | 642 | 9005 | 1396 |
転廃業 | |||
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支部別 | 工場数 | 絹人絹 (織機数) |
綿スフ (織機数) |
八王子 | 268 | 3688 | — |
青梅 | 83 | 1281 | 751 |
東京 | 23 | 36 | 369 |
村山 | 3 | 19 | — |
合計 | 377 | 5024 | 1120 |
『昭和18 年度東京府織物工業組合事業報告』より工場の操廃業数及び廃業者数
資料:八王子織物工業組合百年史375-378 頁
廃業者 | |
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種別 | 廃業者数 |
力織機設備業者 | 16 |
手織業者 | 152 |
合計 | 168 |
復興と衰退
戦後、八王子織物の復活は急速で、ガチャンと織れば万と儲かる「ガチャ万」時代が到来します。1950 年代後半(昭和30 年代)には、ネクタイ地の生産が全国の6 割を占めました。1960
年代前半(昭和30 年代後半)に入ると、ベッドタウン化に伴う都内への人材流出などによって人手不足となり、甲州地域への出機(でばた)が増えていきます。1974 年(昭和49 年)には出機の織機台数が八王子の織機台数を上回り、そうして街中に響く機織りの音は段々と途絶えていきました。外注依存は技術の流出を招き、自社生産を止めることになります。間に入って利益を得るが効率が良いという自らのリスクを減らす構造は、長期的に見れば独自性という強みを捨てることでもありました。
1960 年代後半(昭和 40 年代)から 1970 年代後半(昭和50 年代初頭)にかけて、政府は過 剰設備廃棄事業を行いました。需要に対する過剰設備を改善するため、当時すでにほぼ価値が なかった織機を買い上げたのです。1969 年(昭和44 年)、出荷額が電子機器に追い抜かれ、八王子織物は基幹産業の地位を失っていくこととなります。1970 年(昭和45 年)の生産高のピークを経て、生産高は下降していきました。
1949年(昭和 24年)当時 八王子の繊維業者 | ||
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織物業 640件 |
撚糸業 251件 |
染色業 81件 |
張糸業 73件 |
捺染業 35件 |
整理業 5件 |
ファッションブームの到来
八王子織物は、1970 年(昭和45 年)に生産高のピークを迎えます。1980 年(昭和55 年)には、織物の生産金額をニット製品が上回りました。しかし産業が苦境の中、新たに起きたファッションブームにより、八王子はファッション生産の中心地となるのです。1980 年代(昭和55 年以降)に起こったDC ブランドブームでは、東京の中心に近いという地理的要因と、数多くの工場があった歴史的背景から、クオリティの高いのものづくりが行われていました。
時代に応えるために八王子の職人が生み出したのは、デザイン性の高い布の数々。それは、当時の時代背景(産業衰退への危機感)と、日本を代表する多くのファッションブランドが生まれたという、2 つの要素の交差が生み出したものなのではないでしょうか。ファッションブランド誕生を支えた時代は、八王子の繊維産業の歴史の中でも最も華やかな瞬間でした。単一商品の大量生産化が進んだ現代では、このようなものづくりをすることは難しくなりつつあります。
このような明るい時代であったにも関わらず、工場や生産地域の名前が表に出ることは少なく、製品の多くはブランドの名前で語られていました。そのため、それらの布が八王子で生産されていたことはあまり知られていません。また、1990 年( 平成2年) から2021 年(令和3年)現在の間で、八王子の繊維企業のほとんどはすでに廃業しています。
八王子織物工業組合 組合員数の推移
八王子織物工業組合の「織物関係名簿」を元に組合員数のデータを抽出し、八王子市内に存在していた織物工場の割合を時代ごとに切り取り図表化しました。航空写真を拡大表示すると、織物工場の象徴である「のこぎり屋根」の建物が街に沢山あったことがみてとれます。
衣料品消費の変化
衣料品の国産比率は、2019 年(平成31 年)時点で3% でした。1990 年(平成2年)には国産比率が50% もありましたが、その後急速に変化し、現在は国内の生産で国民の衣料品を支えられない状態。一方で、市場に目を向けると一着あたりの単価は低くなっており、供給過多の状態が続いています。1990 年(平成2年)に15 兆円あった衣料品市場は、2019 年(平成31 年)には10 兆円に。しかし、国内供給量は16 億着から40 億着に倍増しました。そのうちの10 億着から20 億着ほどが、誰にも着られることなく捨てられていると予測されています。
現在の八王子
現在の八王子繊維産地の特徴は、小規模でありながら、それぞれの工場が独自の魅力を持つこと。歴史を経て培われた技術力と、ファッション時代を生き抜いてきた柔軟性を持ち、他にはない布を展開しています。細かい要望にも対応できる工場が多いことから、若手のデザイナーやクリエイターとものづくりを行うことも。また、織物工場の一つは文化学園により「文化・ファッションテキスタイル研究所」と形を変え、織機と共に数多くのアーカイブを所蔵しています。八王子周辺を見渡せば、東京都心の繊維文化を近くで支え、共に成長していった工場が数多く存在する地域であることが感じられるのです。