愛川繊維会館

神奈川県愛甲郡愛川町半原にある、愛川繊維会館 を訪れました。撚糸の産地として栄えた街の資料が展示されているこの施設では、手織り体験をはじめ、藍染、紙漉き、組紐などの制作体験もできるのだとか。2 階には、当時実際に使用されていた貴重な機械を見ることができます。

始まりは養蚕

ここは、かつて養蚕が盛んに行われていた地域。そして、日本屈指の撚糸業地として有名であった場所です。周囲は山に囲まれていて、取材に伺った日は山が芽吹き、鶯の鳴き声が聞こえてきました。この自然に囲まれた一帯は平地が少なく、水田にも畑地にも恵まれなかったといいます。農業だけでは生活が立ち行かず、副業の一つとして養蚕が選ばれたのです。取れた繭から布を織って、暮らしの足しにしていました。当時はこの織物を「半原絹」と呼び、上等品として扱われていたのだそう。

半原は、江戸や甲州、八王子などの産地に近かったこともあり、撚糸の受注が容易な土地でした。各産地の組紐の糸や織物用の糸を生産する仕事が次第に始まります。絹の撚糸は値段も高く他の副業よりも収入が良いという利点も、養蚕地でありながら撚糸の産地として発展していった理由の一つでした。

八丁式撚糸機

撚糸は昔から「紡車」(つむぎぐるま)という機械で撚っていました。それは輪にかけた紐の動きで一本のおもりを回して撚るという原始的な方法です。それを見た桐生の大工、岩瀬吉兵衛が考案したのがこの「八丁式撚糸機」の元になる機械でした。木製の「八丁式撚糸機」では、台の上に20 本ほどのおもりを横並びに取り付け、それぞれに掛けた紐を大きな輪で一斉に回転させる動きで糸を撚ります。それは「紡車」に比べて何十倍も効率が上がり、桐生では織物業も大きく発展しました。半原にこの八丁式撚糸機が導入されたのは19 世紀初め、1807 年のこと。半原の商人であった小島紋右衛門が仕事で桐生を訪れた際に出会います。その素晴らしい機械の働きを見て、すぐに桐生から取り寄せて撚糸職人も招き撚糸業を始めたそうです。

発展した理由

半原はなぜ日本屈指の撚糸産地になるほど発展したのでしょうか。そこには地理的な理由と、宮大工の存在が大きく影響しています。平地が少ない反面、川や沢が多く撚糸機を動かす水力が多いこと。撚糸製造に不可欠な一定の湿度が地形上保たれていたことなども理由の一つです。そして、以前から半原に根付いていた優れた技術を持つ宮大工が、工夫して機械を作ります。のちには撚糸を専門とする大工も現れるほど、他にはない撚糸機の発展に貢献しました。このように、半原は撚糸業に適した条件の揃った場所と、技術向上に熱心だった宮大工のおかげで一大産地として栄えていったのです。それほど栄えていた半原の撚糸産業も、現在ではその工場のほとんが無くなっています。会館には、今は使われなくなった様々な機械が大切に保存されていました。それぞれの機械に細かい説明が付いていて、初心者でもよく理解することができます。撚糸会館は、貴重な産業の資料とともに半原の撚糸産業の軌跡が残されている場所でした。自然と撚糸産業が強く結びついていた愛川町。その自然を感じに、ぜひ会館を訪れてみてください。

text:Hirono Aoki

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